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再スタート そもそも、筆者は何者?

いつも通り結論から行きましょう。

株式会社ゼロキョリ 取締役CTO
株式会社0 [Zero] 代表
エアロネクスト創業者・初代CTO

鈴木陽一とは何者か?

ブログもどきのトップページでは、筆者自身を掘り下げます。
実は、20年以上前に創業した株式会社0 [Zero]以外に、ドローンベンチャーのエアロネクストを創業していました。
創業から数年間は、前例の無いペースで新型機を発表し、過去に例が無い質と量の特許を出願していました。
その結果、CEATEC JAPAN 2018「CEATEC AWARD 2018」経済産業大臣賞など、数々の賞を受賞することになります。
なお、経済産業大臣賞の歴代受賞例を見ると、

・2018年 エアロネクスト「4D GravityR搭載 360°VR撮影用ドローン『Next VR』」
・2019年 村田製作所「全固体電池」
・2020年 スーパーコンピューター「富岳」
・2021年 東芝「フィルム型太陽電池」
・2022年 シャープ「屋内光発電デバイス」

という並びです。

この中に技術ベンチャーであるエアロネクストが入るのは、今見ても少し場違い感があります。
技術系エンジニアは、実質的にCTOである私一人。
機体の設計・製造・特許発案・テストパイロット・デモリール制作など、普通なら一つを担当すれば十分な仕事を、ほぼ一人でやっていました。
スタートアップとは、そういうものだと言ってしまえば、それまでです。
しかし、その後もさまざまなドローン系ベンチャーを見てきましたが、現在でも初期のエアロネクストほどの鋭さを持ったベンチャーは、そう多くないと自負しています。
そして、ブログもどきの更新が約6年間止まっていた理由も、エアロネクストを起業したからです。
なお、エアロネクスト創業前にも、0 [Zero]として約6年間、ドローン空撮の研究開発を続けていました。
業務をこなしながら、このような研究開発を継続していたからこそ、エアロネクスト起業のチャンスが巡ってきたのだと思います。

以下では、どのような経験を積むと、このような人間になるのかを掘り下げていきます。
もしかすると、起業を目指す若者が、このページを見ているかもしれません。
その方々の参考になれば幸いです。

2023年 再スタート時点の状況

このページを書き始めた2023年には、
・エアロネクストから離脱し、主要株主となっていた
・2025年10月までは、ドローン関係の業務は自粛期間
・日々の業務は、航空関係の研究開発と新規事業の仕込み
・山梨在住
・10人家族

という状況でした。

0 [Zero]の創業から24年。
エアロネクスト創業から6年。
成人してから初めて、まとまった時間を得たような状況です。

もっとも、実際には休んでいるわけではありません。
頭の中には、やりたいこと、そして「私しか形にできない」と考えているネタが大量に仕込まれています。
残された時間の中で、この「私しかできない」をいくつ形にできるか。
それが、これからの勝負になります。

鈴木陽一のコピーロボット

0 [Zero]は、もっとも社員が多いときで10名程度のWeb制作会社でした。
その後、VR撮影・バルーン空撮・ドローン空撮を経て、ドローン開発へ進みます。
0 [Zero]創業前のサラリーマン時代から、「あなたのコピーロボットを作りたい」と言われることがありました。
最近では、「AI、鈴木陽一をつくる」というコメントもありました。

これ、私も挑みました。

サラリーマンの頃は同僚や部下を。
0 [Zero]の起業からは社員を。
結婚してからは、自分の子供を。
ほぼ30年という時間を費やして分かったことは、
「鈴木陽一のコピーは不可能」
という結論でした。

まず、生まれ持った才能があります。
私より才能があると感じた人は、過去にも何人かいました。
「この人には負けた」と感じた友人も2名います。
また、鍛えれば私が脅威と感じるレベルの特許を考えられそうな人もいました。
つまり、才能そのものは、私だけが持っているものではありません。
しかし、才能だけでは足りません。
次に必要なのが、環境です。
そして、この環境の再現が令和の日本では難しい。
では、もっと昔なら良かったのかというと、それも違います。

昭和後期の理不尽な田舎

これが、「AI、鈴木陽一をつくる」のに必要だった環境です。
チャンスに恵まれた令和では、厳しさが足りない。
ITが普通になった平成では、情報に対する飢えが生まれない。
昭和中期までなら、PCが爆発的に発展していく過程を十分に経験できない。
私の場合は、アナログとITがオーバーラップした、かなり特殊な時期に成長しています。
まず、アナログの世界で素早く正確に考える基礎ができる。
そこへ、人並み以上のIT知識が入ってくる。
この組み合わせが、現在では人工的につくることが難しくなっています。

ここまでの人生を振り返ると、絶妙な困難と成功の繰り返しを経て、今に至っています。
この瞬間にも新たな困難が発生し、それを解決する方法を探しています。
そして、解決策を思いつき、それを実現するために仕込みをする。
さまざまな方の人生を見ていると、「この方には適わないな」と感じる人は少なからずいます。
一方で、特定の分野では、

「世界レベルで、私と戦える人が存在するのか?」

と思う瞬間もあります。
現在であれば、UAV(ドローン)の基礎設計における速度と確度については、世界トップクラスであると自負しています。
とても優秀だと感じる設計者でも、長い時間をかけて世に出てくる機体は一種類。
私なら、その数倍の新型機を生み出すことができます。
これも、単純に「才能があるから」という話ではありません。
長年にわたって、Web、VR、空撮、画像処理、航空機、ドローンと、その時々の技術を実際に作り続けてきた結果です。
だからこそ、「鈴木陽一のコピー」は、AIであっても簡単ではないと思っています。

そして現在、私は株式会社ゼロキョリの取締役CTOとして、次の領域に取り組んでいます。
それが、住宅を起点に、物流、モビリティ、ロボット、デバイスをつなぐことです。
Webから始まり、VR、空撮、ドローンへ進んできました。
そして今度は、これまで扱ってきた技術を、住宅と物流という、より大きな社会の仕組みに持ち込もうとしています。
その背景には、社会そのものの変化があります。
物流の2024年問題。
慢性的な人手不足。
そして、スマートフォンの爆発的な普及によって進んだ、通信、センサー、クラウドなどの技術の低価格化・高性能化と、それに伴うIoTの普及。
これらが重なったことで、これまで技術的には可能でも、コストや運用面から実現が難しかったことが、現実的な選択肢になってきました。
住宅、物流、モビリティ、ロボット、デバイス。
一見すると、それぞれ別の技術に見えます。
しかし私にとっては、これまでと大きく変わっていません。
既存の技術を組み合わせるだけではなく、必要であれば自分で設計し、作り、実証する。
Webでも、VRでも、空撮でも、ドローンでも、やってきたことは同じでした。

「まだ誰も作っていないものを、自分で作る」

その対象が、住宅、物流、モビリティ、ロボット、デバイスへと広がっただけです。

これが、現在の私の仕事です。

自分史

今の自分に影響を与えたと思える出来事だけを切り出した、自分史が以下になります。
単純な年表ではありません。
「何をしてきたか」ではなく、「なぜ今の自分になったのか」という視点から、人生の中で特に影響が大きかった出来事を掘り下げています。

1):生誕~保育園
2):小学生
3):中学生
4):高校生(前半)
5):高校生(後半)
6):初社会人
7):専門学校
8):2度目の社会人
9):父の他界と家業
10):職人専業時代
11):住宅営業時代
12):0 [Zero]起業
13):0 [Zero]の多角化
14):ラジコン空撮・VR・Full Flash
15):バルーン空撮
16):311とドローン空撮
17):エアロネクスト起業
18):住宅デバイス共創機構設立(株式会社ゼロキョリの前身)
19):次世代航空機構想

1):生誕~保育園 1970~1976

・1970年に、山梨の田舎に生まれる
・2歳でプラモデル
・ボロボロになるまで読んだ図鑑
・大人(保育園の先生)への不信感

◆1970年、山梨の田舎に生まれる 1970年、山梨の田舎に生まれました。
テレビは、まだほとんどが白黒テレビ。
私の一番古い記憶も、白黒テレビです。
自宅の前は3桁国道。
両隣は観光ぶどう園。
最寄り駅まで10km程度。
書店やおもちゃ屋の類いは一切ありません。
駄菓子屋も徒歩圏にはありませんでした。
2023年現在でも、宅配ピザの圏外です。
中央道はまだ開通前。
周囲に同年代の子供が住んでいる家も、一軒もありませんでした。
その当時の田舎としては珍しい一人っ子。
体が弱く、いつも病院に通っていました。
一方で、何にでも興味を持ち、周囲を困らせる子供だったようです。
小学校中退のエジソンほどではありませんが、普通の大人と会話がかみ合っていなかったという自覚があります。
保育園時代の古い記憶をたどっても、周囲の子供と地動説について戦っていたり、先生と口論していたり・・・
今振り返っても、何だかなぁ、という子供です。

◆2歳でプラモデル
私が自分の子供の才能を測る一つの目安にしていたのが、「2歳でプラモデルを作れるか?」でした。
これ、私はできていたようです。
もっとも、「2歳」といっても3歳に近い時期だったのでしょう。
7人の子供を育ててきた経験からすると、2歳前半でプラモデルを作れるというのは、現実的にはかなり難しいと思います。
当時の記憶はありません。
母を含む周囲の人からの証言で確認しています。
私の一番古い記憶も、自分のプラモデルを勝手に作っている父の姿です。
「自分でできるのに~」と、子供心に悔しがっていたことを覚えています。
父も母も、教育には全く興味がないタイプでした。
数字の数え方くらいは教えてもらっていますが、文字については、ほぼ放置だったのでしょう。
育児放棄というほどではありません。
ただ、現在の保護者が普通にやっていることのいくつかは、やってもらっていません。
例えば、箸の持ち方も教えてもらっていません。
一定の年齢になったときに自分で「これは恥ずかしい」と思い、自分で覚えました。
時折、20kmほど離れた甲府まで買い物に行き、欲しがったプラモデルを買ってもらっていたようです。
恐らく、時折訪れていた母方の祖父からも買ってもらっていたのでしょう。
祖父は都内在住の大工でした。
ミニカーなども人並みには持っていたと記憶しています。
しかし、欲しがったのはプラモデルだったそうです。
子供の頃の私は、「ミニカーを買うことは、作る楽しみを捨てている」と感じていました。
文字も読めないので、説明書の文字を理解して組み立てていたわけではありません。
図面の形状を見て、組み立て方を推測していたハズです。
今にして思えば、ここはかなり重要な経験だったと思います。
理屈を言葉で理解する前に、形そのものから構造を理解していた。
後の私の設計方法につながる、かなり早い段階の特徴だったのかもしれません。

この時期の逸話を一つ。
母方の祖父は、東京都世田谷区中里で大工をしていました。
4歳くらいの頃でしょうか。
祖父に連れられて、現場へ行ったことがあったようです。
その際、祖父が接着剤を使って何かを貼っていたところ、「接着剤付けすぎ~」と突っ込んでいたそうです。
若い方には分からないと思いますが、昭和のプラモデルは、チューブに入ったプラモデル用セメダインで接着するのが普通でした。
これを付けすぎると、はみ出して盛大に美観を損ねます。
一方、大工さんが使う木工用ボンドは、はみ出しても拭き取ることができます。
まだ小さいですから、接着材は全て同じ物という世界で考えています。
故に、間違っているんですけどね。
重要なのは、こうした現場の知識を、誰かに体系的に教えられたわけではないことです。
自分で見て、考えて、試して、身につけていました。
自宅周辺に友人はいません。
兄弟もいません。
だからこそ、かなりの部分を自分自身の試行錯誤だけで身につけていったのだと思います。

◆ボロボロになるまで読んだ図鑑
徒歩で1時間程度の範囲には、本屋がありませんでした。
駄菓子屋に至っては、幼児の足では到達不可能です。
必然的に、家にある数少ない図鑑を徹底的に読むことになります。
自動車と飛行機の図鑑があったことは覚えています。
地動説を知っていたので、「地球」などの図鑑もあったのでしょう。
とにかく、ボロボロになるまで読みました。
一度興味を持ったものを、とことんやり込む。
この性格が形成された理由の一つは、ここにもあると思います。

◆大人(保育園の先生)への不信感
具体的な内容については自粛します。
ただ、保育園児だった私は、「この人=保育園の先生は、子供か?」と感じていたことがあります。
遊び相手はいませんでした。
恐らく、保育園でも一人で遊んでいたのでしょう。
一方で、家業の組子店には、建具屋さんが出入りしていました。
私の趣味はプラモデル。
そして、話し相手は頭の回転が速い建具屋さんたち。
結果として、同年代の子供よりも、大人の職人と話している時間の方が面白かったのだと思います。
この頃にはすでに、「人の言うことをそのまま受け入れるのではなく、自分で考えて合理性を判断する」という思考の基礎ができ始めていました。

決定的な出来事までは、もう少し先です。
ただ、この時点で既に、かなり「おじさんみたいな子供」が出来上がっていたようです。

2):小学生 1976~1982

・決定的な大人への不信感
・1日に8~15kmを歩く(走る)という日常
・そろばん教室
・スポ小剣道
・授業参観で先生をつるし上げる
・学歴軽視が形成されてしまう

◆決定的な大人への不信感
私という人格を形成する上で決定的なイベントが発生します。

理不尽な理由を説明出来ない大人に悟りを開く小学生・・・

小学校へは直線で2km程度の距離があります。
学区は東西で長く、西(自宅)2km~学校~東8km このような位置関係です。
直線では2kmですが通学路を通ると3km程度の距離になります。
なお、西は市街地となる甲府方向。東は御坂峠から河口湖に至ります。

スクールバスが、東側の遠距離と西側の一部をカバーしています。
自宅は徒歩指定エリア。
問題は西側の一部のエリア。
学校からの直線距離はほぼ一緒。
通学路換算では、自宅の方が遠距離です。
自宅よりも近いはずの近距離の西側生徒を迎えにスクールバスが走る。
このバスは徒歩で歩いている私の横を素通りします。
低学年の頃はまったく疑問に思っていませんでした。
中学年くらいに、この件を大人(先生含む)に確認を取ったことがあります。
この回答に小学生の私が納得できるものが有りませんでした。
今のようにスマホで地図が確認できる時代ではありません。
私が一部のスクールバス通学よりも長い距離を通学していると確信が取れるまでには時間が必要だったのです。
具体的に気が付いた年は覚えて無いのですが、4年生くらいかなと推測します。
今の私が考えても、これに真摯に答えるのは難しいところです。(難しいが、キチンと回答出来ますが)
具体的な回答は覚えていませんが、納得出来なかったという点はハッキリと覚えています。
この後も理不尽なイベントが続きますが、先生を含む学校に対する不信感が出来てしまったのでしょうね。
今は、極めて合理的なエンジニアとして成功しています。
目的の最短距離を選ぶことから、結果として周囲からは回り道にみえることでも、疑問を持たずに突き進みます。
同時に、理屈ばかりで動くことをしない人々を嫌っています。
この性格の基本的な部分は小学校の頃に形成されており、「AI 鈴木陽一」が令和の時代では生まれ無いとする根拠の一つになっています。

◆1日に8~15kmを歩く(走る)という日常
通学路は3kmです。
普通なら、往復で6kmです。
この距離でも、十分頑張っている小学生です。
現在の様に父兄の送り迎えなどは原則禁止という時代です。そりゃ~基礎体力付きまくりです。
これに、小学2年生から朝のマラソンというイベントがサービス残業として差し込まれました。
時間で10分。距離で2km程度でしょうか。
しっかりと汗をかいていたと記憶しています。
確か・・・その当時の校長先生の発案だったでしょうか?
確かにスクールバスの子供は運動不足でしょう。
ほとんどの短い距離の通学の子供達も同様です。
でも・・・学区内の最長距離を理不尽に通学している私には苦行です。
結果として、将来の私にプラスになっていることは感謝しています。
ここでの問題は、1日の距離を8~15kmと幅を持たせた点です。
その当時の小学校では、忘れ物をすると自宅まで持って帰るというペナルティが発生していました。
往復で6kmの距離による自宅に忘れ物を取りに帰れと言うんです。
もちろん、授業の時間は終わってしまうのですが、私は取りに帰されました。
今書いていても、まったく非合理な発想です。

これは、今の私にもちろん生きています。
私は業務上でミスが極めて少ない人間です。
この頃の理不尽なルールで、極めて段取り能力が高い人間になっています。
同時に合理的です。
創業時代から、「会社はお金を稼ぎに来ているところ。遊ぶ場所では無い」と常に社員には言い聞かせています。
故に、社員旅行無し・報告書の提出無し(税務関係は除く)・時間外の社員の交流無し。
このようなドライな社風になっています。

ここでスクールバス問題が再発します。
私よりも通学距離が短いスクールバスエリアは、忘れ物持ち帰りのペナルティは発生しません。
1日で2回の忘れ物をすれば、15km程度は走っていたと推測しました。
距離の計算が合わないのは・・・ 素直に通学路を走らないからとなります。
人格形成で大きかったのは、この1日の中で大きな時間を占める通学の時間が一人であった点です。
道も勝手に決めて気分でフラフラとしています。
この通学中の一人の時間で頭の中で色々と考えることを繰り返していました。
一部のスクールバスエリアが、実質的に自宅よりも近い距離に位置するという気が付きなども、この時間に出てきたことでしょう。

この長時間の徒歩とランニングの結果、化け物クラスの基礎体力を獲得することが出来ました。
それに気が付くのは、もう少し先の事になるのですが、50歳を過ぎて体力と気力があるのは、この時の経験からでしょう。
また、今の私は、課題を示されると短い時間で3案程度を即答します。
さまざまな設計の際にも、短い時間に複数案を自分に示し、外部には選りすぐりの2~3案を提示します。
これを可能にしているのが、小学校の頃の莫大な一人の通学時間がルーツでは無いかと思っています。
もしも、「AI 鈴木陽一」の条件の一つをあげるとすると、幼少期の不合理に長い一人の通学時間とします。

このページを書きつつ小学校の頃を思い出すと、自宅の記憶が少ない事が判明しました。
長い通学距離は基本的に一人。
他の子供の家が遠いことから、自宅に帰ってから遊びに出ることは無い(学校帰りに寄る)
テレビは一台で流れているのはNHKのみ。
恐らく、いつも疲れていてよく眠っていた。
小さい頃はプラモデルなどを買ってもらっていましたが、私が10歳くらいのときに祖父が他界すると、それも無くなります。
本をよく読んでいた記憶はあるのですが、とにかく自宅で遊んでいたという記憶が残っていません。
残っているのは、家業の組子細工の手伝い。
長時間に渡る単純作業をさせられていたという強い印象は残っています。

◆そろばん教室
小学校低学年の時に短期間ですがそろばん教室に通わされていました。
暗算が速いことは、このお陰です。

◆スポ小剣道
体が弱かったことから、保育園の終わりの頃からスポーツ少年団の剣道に通っていました。
現在の様にサッカーなどのスポ少は無く、野球などは早すぎるという年齢です。
多くの子供が剣道に通っていたという時代でしょう。
短い期間で辞めてしまうのですが、年代別の郡の大会で優勝。
確か県大会でも上位に入ったと記憶しています。

◆授業参観で先生をつるし上げる
小学校の頃の記憶から
・ノートは全く取らない
・教科書は持ち帰らない
・夏休みの宿題の多くはやらない
・自分勝手に、より良い方程式をつくっていた

先生の話は良く来ていていました。
そして、ノートは全く取りません。
このノートを取らないことを怒られたという記憶が無いんです。
多少はお小言があったことでしょうけど、しっかりと聞いていたことで免除されていたと思っています。
これも、余りにつまらない話だと、勝手に教科書を読み進めるということをはじめてしまいます。
この結果、算数などでは事業中に、よりシンプルな回答方法などを思いついてしまいます。
挙げ句の果てには、「こんな簡単な事に気が付いただけで、名前が残るのか~」とまで。
私は小さい頃より、学歴軽視の傾向があります。
先生は、教科書を読むだけ。
偉い学者さんも、普通に考えればわかることをしただけ。
時間とお金を掛けて、大学に進むなどは無駄。
このような考え方は小学校の間に辿り着いています。

本題に戻ります。
具体的に何をしたのかは覚えていないのですが、無数の「教科書よりもより良い解決方法」を思いついています。
その多くは、極めて短い時間に発想していました。
結果は見たことがありませんが、IQは高かったのでしょう。
※IQは、年齢が進むともう少し具体的にわかってきます。

そして、先生に不幸が訪れます。
その先生は・・・恐らく、頭の回転が高い方ではありませんでした。
とある授業参観が算数だったようです。
何かのきっかけで私が発言する事になったようなのですが・・・
いつものように、勝手な公式で短時間で回答してしまったようです。
回りの生徒はいつも通りの事なので特に驚きはなかったのでしょう。
父兄もぽっか~んとしたことでしょう。
後日ですが、一部の父兄さんは私のやっていたことが理解出来たようです。
当の本人は何をやったか全く覚えて無いのですが、こう言うエピソードを周囲から聞いていたので覚えていた次第です。

◆小学生:まとめ
令和の小学校では存在することが許されない子供です。
そして、良くも悪くも、こんなことが見逃される時代で育ったからこそ個性的な私が育つ。
平成以降の小学校でも、「個性を重んじて」はクリアできるのですが、理不尽なストレスを与える事が出来ません。
私の個性というのは、ある程度の理不尽なイベントへの反骨心からなのです
私も社員教育などで気がつけましたが、恵まれた環境から私のような個性は生まれることはありません。
戦争により化学の発展が一気に進むのは周知の事。
これは投入される物資量が多いことも原因のひとつですが、大きなストレスの方が大きいと個人的には考えています。
人は激しい形でやる気を刺激した方が効率が高くなります。
振り返ると、今の私を形成するのにもっとも大きかったことが、忘れ物を取りに帰されるというところでしょうか。
私は、20代中頃から極端にミスの少ない人間になっています。
特に、事業の方向性の検討など、誤ると大きな問題になるタイプの判断はまず間違えません。
この30年を振り返ると、ミスと呼べる判断は2回くらいしかありません。
ただし、その一つはとても大きな読み違いでした。
具体的にはスマホの普及とFlashプラグインに関して。
この読み違えにより、0 [Zero]の事業の一つであったWeb制作から撤退することになります。

3):中学生 1982~1985

・地味な中学生
・初めてのアルバイト
・秋葉原へ
・高校進学

◆地味な中学生
地元の中学に普通に入学します。
二つの小学校から人が集まり、学年は150~180人程度だったと記憶しています。
なお、この学校はレミオロメンの出身校です。
特に一生懸命部活をやっていたという記憶はありません。
通学距離は、小学校の逆転です。
学区内で最短距離の自転車通学でした。
成績は学年で一桁をキープ。
特に一生懸命勉強をしたという記憶もありません。
周囲からは、そこそこ成績の良く運動が出来ない人と思われていたと思います。

実は、周りに知られること無くスキーをやっていました。
小学校高学年で叔父に連れて行ってもらったことがきっかけ。
スキー場までは2時間程度の移動時間を必要としたハズですが、熱心に連れて行ってもらいました。
周囲から情報が入ってこないのは小学生時代と変化はありません。
'80年代ですので、周囲はアイドルなどに夢中。
私は、スキーに夢中です。
アイドルは全くわからない。自分の中のヒーローは、今でもマーク・ジラルデリです。
今にも通じるところでは、この頃から道具に拘っていたことです。
中学生ですが、独学でスキー板を研いでいました。
ただし、このような事は友人も知らない話です。
あくまで周囲の印象は地味な中学生です。

◆初めてのアルバイト
中学2年生の夏休みに樹脂成形工場でアルバイトをしていました。
仕事内容は、デジタル表示部の樹脂成形パーツの検査。
カセットデッキなどに組み込まれるようなパーツです。
この後も色々なアルバイトを積極的にすることになるのですが、とても良い経験でした。
今のドローン開発にも、この時の経験は活きています。
現場の空気感と言いましょうか、ミスがどのように発生しているのか?
どうしても止めにくいタイプのミスがあるとか・・・
現場を知らない人にはイメージ出来ない事がわかっていたりします。
何時ごろが眠くなるとか、ミスをどう隠すかとか・・・

◆秋葉原へ
初めて秋葉原に行ったのが中学2年生。
1980年代の中盤です。
親に連れて行ってもらい、初めてのPCを購入しています。
初めてのPCは、PC-8801mkIIで 確か20万円くらいだったと記憶しています。
もちろん、親に購入してもらっています。
恐らくですが、書籍やソフトなどはバイト代で購入していたのでしょうね。
なお、購入店舗は建て替え前のラジオ会館の5階くらいにあったと記憶しています。
その後も、さまざまな物をここで購入することになります。
後記しますが、高校3年の頃(部活の引退後)は、月に1回くらいのペースで秋葉原に通うことになります。

◆高校進学
この地域の中学生は9割程度が地元の高校に進みます。(これが、レミオロメンルート)
優秀な子は、甲府市内の普通高校になります。
私が本命としたのは、学区外のスキー部がある県立の普通高校でしたが・・・
こちらは、学力が足りませんでした。
この当時は学区外に進むのには尋常では無い学力が求められるという時代でした。
「500点満点で480点取れ」位を求められたと記憶しています。
こう言う点は今の子供達が恵まれています。

高校は20km離れている工業高校を選びました。
この段階でも、話をする方の多くは家業の組子屋に訪れる建具屋さん。
大人になれば、腕さえあれば道は開かれると信じて疑っていません。
ただし、父親からは家業の組子屋を継ぐことを断られていました。
理由は、組子屋の仕事が減ってきているから。
父に家業を反対されるまでは、小さい頃から甲府工業の建築科を考えていました。
既にPCは持っていたことから、それならばPCに近い勉強をと思い甲府工業の電子科のことを調べます。
その際に、何かが引っかかり・・・電気科に進むことになります。
今振り返ると、パソコン関係のことは学校で学ぶより、書籍で独学した方が早いと感じていたのだと思います。

4):高校生(前半) 1986~1987

・文系から体育系へ
・自転車競技(ロードバイク)

◆文系から体育系へ
中学では、どちらかと言えば文系と見られていたハズです。
周囲から見ても、そこそこ成績は良いものの、運動は出来ない地味な中学生だったと思います。
ところが、運命のなんとかが動き始めます。
上記したとおり、私はスキーをしたかったのです。
でも進学した甲府工業にスキー部は無し。
適当な部活に入って、趣味でスキーをしようと思っていたところ・・・

担任から、自転車部への勧誘が入ります。

これ、まったくの偶然です。
'80年代中頃なので、世間一般にロードバイクなどという単語は浸透していません。
中学生の頃から愛読書となっているスキー雑誌で、スキー選手がオフトレでロードバイクに乗っていることは知っていました。
今でもそのページをしっかりと覚えていますが、その当時のスター選手のピルミン・ツルブリッゲンがLookのペダルがついたバイクに乗っていました。
その時点の私のロードバイクの知識は、この程度です。
自転車ならスキーのオフトレに良いか・・・
担任も冬期はスキーをして良いと言ってくれたし・・・
とっ軽い気持ちで自転車部に入ります。

◆自転車競技(ロードバイク)
ここから漫画のような展開になりますが・・・実話です。
まずは、登場キャラクターの紹介。

・私 高校1年生、中肉中背、スキー経験有りの秋葉原好き
・3年生大先輩 国体ロード2連覇(入部段階では前年優勝) ピスト競技でも多数優勝
・3年先輩のライバル 神山雄一郎さん(後のケイリンの最多優勝記録保持者)
・同チームの選手(同級生4名・2年先輩1名)
・2年生の他校の先輩(後に国体優勝)
・他校の同級生諸々(後にチームロードインターハイ2位など)
・橋本聖子さん
・部活顧問(現役選手・オリンピック選手)
・コーチ(現役選手・アジア大会銀メダリスト)
・自転車屋のメカニック(無名ですが、私への影響が強かった)

繰り返しになりますが、実話です。
某アニメを初めて見たときは、私のことと被ったことが多くビックリしました。
あちらは、千葉から秋葉原に自転車で通って体力が付いていた。
私は小学校の通学距離ですね。
入部時点で自転車競技の素人であるのも一緒。
周りが経験者で自分が唯一の素人。
秋葉原好きは共通(その当時は完全な電気の街ですが)
山岳向けという点も同じ。
あちらは、極端なケイデンス重視。私は真逆。
周囲のキャラクターの濃さや強さなども同じ。
重要な登場人物となるのですが、3年の大先輩など、見た目や話し方まで巻島先輩です。

部活の初日の話です。
素人の私は軽い気持ちで入部しています。
そして、初日の部室に入ります。
機材は部からの貸し出し品。
レーサーパンツとレーサーシューズのみ自分で購入しています。
この初日に初めて大先輩などに会うのですが、「とりあえずパンツ脱いで、レーサーパンツ履いて・・・」
これ、素人で初めて聞くと、いじめですか?と思ってしまいます。
股ずれを防ぐことからコレで正解なのですが、何も知らない素人はビックリしました。
そして、学校から往復で80km(甲府から長野県境まで)程度の練習に初日から投入。
初日から、ストラップ式のペダルで現場に投入です。

問題は、そのチーム構成です。
3年生大先輩は、前年度の国体ロード(個人)の優勝者。
顧問もバリバリの現役選手で、こちらもロード優勝経験あり。
同級生の全ては、経験者で、ケイリン選手を目指している者が複数。
当然ですがついて行けなくてぶっちぎれる。
伴走車などもありませんが、命の危険を感じて勝手に折り返しました。
それでも、次の日は血尿です。
とにかく、最初の一週間が人生で一番厳しい時間になりました。

その後は、通学で往復40km。
平日は、部活で70km。
土日は、部活でロードなら150kmかピスト。
つまり、平日で平均100km以上を毎日の様に走っています。
そして、走行ペースは全日本クラス。
片側2車線の国道などでは、平均速度は50km/hを超えます。
下り坂では、大型トラックの後ろでフォーメーションを組む。(現在では犯罪レベル)
はい。完全に漫画です。
私の長男が昨年まで高校で競技をしていましたが、この辺の認識が現在と大きく異なっていることにビックリしました。
なお、この長男の顧問が、私の顧問と一緒の方です。
親子で同じ恩師というのも漫画の様です。
その後も私の周囲はなぜか自転車競技経験者があふれるのですが・・・不思議です。

そして、ネタの追加。
同じ教室の左後ろの親友。
彼は、野球部のエースで、高校卒業後はノンプロに進みます。
大人になり一緒にゴルフをする機会があったのですが、化け物であったことをその時にも感じました。
ちなみに、私が2年の時には甲子園のベスト8(投げたのは友人以外・その後に阪神のクローザー)。
どう考えても、周囲が漫画だったんです。

1年生の夏休みになります。
そこで県の学年別大会が開かれました。
その日は、県外の何かの大会と被り、同校の2名の選手(強い)は遠征しています。
それ以外の県内の多くの1年生は参加。
恐らくですが20~30名程度の参加人数かと思います。
学年別大会はピスト競技で、5種目でした。
私は、200mのフライング(加速を付けながら最高速で勝負)で2位。
残りの4種目は・・・全て優勝でした。
ただし、この優勝はそれほど周囲から評価はされませんでした。
なぜなら、経験者(どちらもケイリン選手を目指している)2名が不参加なので・・・
私自身も同じような評価でした。

そして、1年生の新人戦を迎えます。
上級生も含めた大会になります。
下馬評では、他校の2年生先輩がぶっちぎりのトップ。
この方ですが、次の年の国体優勝選手です。
これ以外にも、青年も含む(つまり、国体優勝経験者多数参加)選抜大会でも優勝する事になる、スター選手です。
歴史に残る化け物がいたことから目立ちませんが、普通に漫画の主役になれます。
個人は2種目エントリーで、私は2年先輩と同じ競技にエントリーしています。
結果は・・・どちらも1位。
素人で入部して、半年でこの成績です。
流石に、この成績で周囲の評価も変化します。
その当時の山梨の自転車競技は、国内トップクラスです。
この環境下で、1年が新人大会で個人タイトルを総ナメです。
なお、この瞬間が私のピークとなります。
この後は腰痛により、まともに練習が出来なくなります。
現在のスポーツ医学なら何とかなったのかも知れませんが、普通に病院にすら行きませんでした。
距離も速度も出せなくなり、2年の新人戦が引退試合となりました。
腰痛の原因は完全なオーバーワークと極端に重いギア比から。
ピストのギア比は中野浩一さんと同じ。
ちなみに、スタンディングから200mの持ちタイムも中野浩一さんと同じでした。
ピストの団体競技(その当時のイタリアン)では第一走者だったのですが、本気で走ると2走目以降がちぎれるというあり得ない脚力を持っていました。
なお、このチームですが私が2年となる関東大会の団体追い抜き(4名・4000m)で、作新学院(高校記録保持)と同時に走っています。
そして、このチームに途中まで勝っていたという布陣です。
現在のロードレース用語で言うところのパンチャーに該当すると思います。
私自身のことなので、言い切ることが可能ですが、ドーピングはしていません。

腰痛が出てからは、存在感が薄れていきます。
2年生になり、全国大会などにも出て行きますが思うような成績は残せません。
予選くらいは通りますが、優勝に絡むことが出来ませんでした。
唯一の例外だったのが、2年生で出場していた関東大会のロード。
前日入りだったのですが、宿の温泉が効いたようです。
大会当日は、久しぶりに腰痛無しで走ることが出来ました。
会場は群馬サイクルスポーツセンター。通称郡サイ。
このコースと私の相性が良かったことから、周回の半数以上が私がファストラップでした。
下りのテクニカルなところで仕掛ければ、誰も付いてこれない。
これ、今の私がコーチなら、「ゴール1周前に一人逃げしろ」と指示するところです。
このクラスの大会ならゴール前はお見合いです。
この一人逃げを可能にするのがスキーの経験です。
テクニカルな下りでは、その当時のロード選手は誰もついて来れなかったのです。
現在の選手に例えると、トム・ピドコックですね。
郡サイで、ペダルを地面に擦りながらコーナーリングする高校生でした。
本人も、さすがにこの大会は勝てると思っています。
繰り返しになるのですが確実に勝つには、逃げれば良かったのです。
でも、私は基本的には自転車競技の素人なのでそのような知識は無し。
先輩などは一人逃げで勝つのですが、自分は化け物では無いと自覚しています。
いろいろありますが、関東大会なのに競ることを選んでしまいます。
ゴールスプリントには最終的に20名程度が挑んだと思います。
後端から一気にまくるという戦略で最終コーナーを立ち上がります。
さあ、ここからというところで・・・
直前の選手がブレーキング。
私も、それを避けるためにブレーキ。
そして、集団は走り去る・・・

ここでも、漫画パワーが炸裂します。

そのブレーキを掛けた選手は千葉の選手。
そして、ウェアーは黄色でした。
今でも、その瞬間をハッキリと覚えています。

その後、2年の新人戦で引退します。
私は自転車競技を好きで始めたという人間ではありません。
基本的には、苦しかったという印象しか残っていません。
短いですが、トップクラスの成績が残せたのは、小学校の通学によるところが大きいでしょう。
この時の経験も、現在の仕事にプラスの影響になっています。
一般のドローン開発者との違いに、50km/h程度の空力を体で知っているが入ります。
2023年現在では、巡航時の横風まで考慮しているドローンは皆無です。
私の設計では、当然の如く入るのですが、これが高校の頃の自転車競技の経験が生きています。
仮に普通の生活をしているなら・・・ピスト競技で、「橋本聖子さんの後ろに付くと楽になる」などの経験は出来ません。
普通(インターハイ優勝クラス)の男子高校生よりも、彼女の後ろに付いた方が空気抵抗の関係から軽く走れます。

また、大きな影響を与えたのが自転車のメカの方。
この方も漫画のキャラ並に濃い方で、整備の基本はこの方に教わって(見て盗む)います。
機会があればお礼を言いたかったのですが、その後の足取りがつかめませんでした。
この後も自転車の整備は当然として最終的には自動車のエンジンなども自宅で下ろす事になるのですが、この出会いが無ければどうなったかはわかりません。

5):高校生(後半) 1987~1988

・スポーツ万能
・はじめてのC
・赤電話から株の売買
・ファストフードでのアルバイト
・職業適性検査

◆スポーツ万能
中学時代の友人と高校時代の友人では、私に対するスポーツのイメージが大きく異なります。
高校時代の友人は皆、私がスポーツ万能だったと記憶しています。
まず、自転車競技での活躍が目立ち過ぎました。
その当時の甲府工業は、まさに体育会系。
関東大会では、クラスの2/3程度がいなくなります。
インターハイでも、1/3。
県大会で優勝することなど、普通という空気感です。
このような環境でも、1年生で自転車競技の個人タイトルを総なめにしたことは、かなりインパクトが大きかったのでしょう。
今でも、校内での表彰式のざわめきは覚えています。
この自転車競技も、2年の新人戦で引退。
そして、高校時代の友人が今でも覚えているのが、スキー教室での無双です。
はい。
本人としては、自転車はスキーのオフトレです。
その本業と思っていたスキーでは、高校生の趣味レベルを明らかに超えていました。
さらに、自転車競技によって基礎体力が大幅に向上したことで、他のスポーツでも能力が上がっていました。
授業でソフトボールをした際にも、ライナーへの反応を親友に褒められました。
「お~、さっきの甲子園みたいだった!」
この年、母校は甲子園でベスト8まで進んでいます。
ちなみに、この親友は甲子園に出場した世代とは別の年になりますが、その後、社会人野球に進むことになります。
こうして振り返ると、中学時代には「運動はできない」と思われていた私が、高校ではいつの間にか「スポーツ万能」という評価になっていました。

◆はじめてのC
これは授業中に読んでいた愛読書です。
プログラムに関する書籍ですね。
その当時の私は、学校で勉強をほぼしていません。
学校で寝ることは当たり前。(特に、自転車競技をしていた時期は)
1時限目で寝て、起きたのが昼食後という記録も持っています。
当然ですが、成績はボロボロです。
1000名の学生がいましたが、2年連続で漢字書き取りテストの最下位という記録が残っています。
赤点も無数に取っていたはずなのですが、補習というのを受けた記憶が無いんです。
ナゾのパワーで卒業しています。(当時のスポーツ系高校のアルアル)
ただ、学校の勉強をしていなかった一方で、別の勉強はかなりしていました。
それが、PCです。
その当時、パソコンはまだ「ゲームのひとつ」くらいに思われていました。
少なくとも、学校で勉強するものではありません。
確か、パソコン雑誌の裏表紙に、「PC-9801、100万台を突破!」などと書かれていた時代です。
なお、私が持っていたのはPC-8801(8ビット)でした。
雑誌などは16ビット機であるPC-9801を中心にコードが書かれていたことから、「何としても98が欲しい!」と思っていた時期です。
ところが、PC-9801は高い。
一式で50万円程度する98は、高校生の私にとっては高値の花でした。
そこで、部活を引退してからアルバイトを始めます。
最終的には、アルバイトと株の収益でPC-9801VX2を購入することになります。
このPCの購入がなかったら、間違いなく今の私はありません。
ちなみに、アルファベットのブラインドタッチは、授業中に紙のキーボードで覚えました。

◆赤電話から株の売買
PC9801を買いたいという一心で、実家の株運用を任せてもらえるように父親と交渉。
一部の株の売買を勉強を兼ねて任されます。
その当時の周囲は、少年漫画を読んでいるかアイドルを聞いているか。
私は・・・校内で日経新聞を読み、ラジオ短波で株価を聞いているという高校生になりました。
学校が甲府にあったことは都合が良く、学校帰りに野村證券によることも出来ました。
株の売買は、平日の昼間に行う必要があったことから・・・学校の赤電話から売り買いをしています。
後に私は、同級生では珍しい起業家になりますが、その基礎は、この時代に学んだのだと思います。

◆ファストフードでのアルバイト
自転車競技を辞めてからは学校の近くのモスバーガーでアルバイトをしていました。
その時のあだ名は、「店長」でした。
高校3年ですが、店長です。
もちろん、本当の店長はいたのですが、私の方が明らかに働きは良かったですね。
なお、自宅に近いという理由でマクドナルドに鞍替えしたのですが・・・
ここ、一日で辞めました。
辞めた理由は語りません。

◆職業適性検査
ここで、少し変わった話があります。
確か高校3年の頃に職業適性検査が実施されています。
5段階評価で、さまざまな仕事の適正を示すという物でしたが、ここでやらかします。
50個くらいの職業があったと思いますが、こんな成績です。

新聞記者 4/5

はい。
新聞記者ですか・・・向いてないんでしょうね。
だって、他の全てが5ですから・・・
なんてことないですね。
これ、IQ検査です。
なお、私のIQが異常値に達していたことに、まだ気が付いていません。

6):初社会人 1989

・求人票の虚偽
・第二種情報処理技術者試験
・最年少のライン長
・おめでとう1,000円

◆求人票の虚偽
1989年、初めて社会人になります。
当時は、当然ですがインターネットなどありません。
高校生が求人を探す場合、基本的には校内で閲覧できる求人票が情報源でした。
本当なら、ソフトウェア開発やロボット開発の仕事に進みたかった。
今になって考えれば、ロボット開発を本気で目指すのであれば、大学などへ進学するのが一番近道だったのでしょう。
ただ、当時の私には、その道を教えてくれる人はいませんでした。
むしろ、高校3年生の担任に私がPCを教えているような状況です。

そんな中で見つけたのが、「開発の仕事で、給料も高い」という地元企業の求人でした。
深く考えず、そこに就職します。
その会社については、現在でもネガティブな内容を書くことになるので企業名は出しません。
ただ、当時の状況を簡単に書くと、
・新入社員は約100人
・大卒・専門等が約20人
・高卒が約80人
・工場は県内に3カ所で、配属場所は全て自宅から遠距離
・BtoCよりBtoBが多め
といった会社でした。

正式入社の前にアルバイトとして入ったのですが、その時点で、「この会社は自分には合わない」と感じていました。
そして、入社式を迎える前には、「この会社は、すぐに辞める」と心に決めています。
これは、求人票の内容を疑ったからではありません。
実際の仕事ぶりや会社の雰囲気を見て、社風そのものが自分には合わないと感じたからです。
ところが、入社して半年ほど経った頃、周囲の社員から聞いた話に驚きます。
この会社では、高卒は生産管理まで。
開発部門は、すべて大卒等です。
しかも、過去に入社した高卒社員を見ても、開発部門に入った人は一人もいない。
新入社員100人のうち約80人が高卒なのですが、その80人には、実質的に開発へ進む道がありませんでした。
ところが、私が高校時代に見た求人票には、「開発」と書かれていたのです。
ここで初めて、「求人票に書かれていることと、実際の会社の仕組みは違うことがある」という経験をします。
と、いうよりも、これは「違う」というレベルではありません。
高卒から開発に入った実績が一人もないのですから、高卒求人に「開発」と書くこと自体に、かなり大きな疑問が残ります。

◆第二種情報処理技術者試験
会社を辞めると決めたからといって、仕事を適当にするつもりはありませんでした。
一方で、次の道へ進むためには、まず自分の能力を客観的に証明するものが必要だと考えました。
そこで受験したのが、第二種情報処理技術者試験です。
社会人になって最初の春に受験しましたが、不合格。
そこから猛勉強を始め、秋の試験で合格します。
高校時代からC言語を勉強していましたが、当時はC言語を選択することができませんでした。
必須だったのがアセンブラ。
そして、選択がBASICだったかな?
高校時代からC言語をやっていた私としては、「なぜCがないんだ?」と思った記憶があります。
まあ、当時はそういう試験でした。
現在の私にも通ずるところがありますが、世間の動きよりも、私の動き出しは速いんです。
当時の合格率は、確か10%以下。
私は10代で、しかも独学です。
当時の雑誌、資格試験の対策本だったと思いますが、10代の独学者が合格する確率は2%程度という数字を見た記憶があります。

◆最年少のライン長
辞めることを決めて、資格の勉強をしている。
そんな状況でも、仕事を適当にするつもりはありませんでした。
最初に投入されたのは、5人程度のラインです。
確か、OEMの投射器を製造していました。
その後、私は自分のラインを持つことになります。
当時、私は19歳。
私の次に若いライン長が24歳でした。
つまり、19歳で最年少のライン長です。
辞めることを決めていた私ですが、仕事については、それなりに評価されていたのでしょう。

◆おめでとう1,000円
私が担当していたラインでは、ATM向けのスキャナを製造していました。
出荷台数は、月に数百台程度だったと思います。
そして、私がライン長になった途端、不良率が大幅に改善します。
なぜ改善したのか?
時効なので書きます。
実は・・・

客先から提供されていた試験機のプログラムを書き換えていました。

試験機は、NEC PC-9801。
そして、目の前には開発環境があります。
プログラムを見ると、「これ、もっと効率よくできるだろ」と思ってしまった。
元のプログラムが非効率で、無駄な調整作業が発生していたからです。
だったら直してしまえばいい。

そう考えて、勝手に書き換えました。

もちろん、アウトです。
客先から提供物を、勝手に変更しているわけですから。
しかも相手は、某有名企業。
まさか、「田舎の工場にいる高卒のライン工が勝手にプログラムを書き換える」とは想定していなかったでしょう。

結果として成績は急上昇。
あの時の改善の「犯人」は、私です。
そして、その結果として私のラインは、驚異的に利益を生み出すラインになりました。

確か、会社にとって月800万円程度の収益増になったと記憶しています。
しかも、このラインには私を含めて2名しかいない。
その結果、私は表彰されることになります。
会社から評価された。
成果も認められた。
めでたし、めでたし。……とはなりません。

表彰のお祝い金は、1,000円。

19歳の私にとって、金額そのものが問題だったわけではありません。
むしろ、「これだけ結果を出しても、会社の評価は1,000円なのか」という感覚が残りました。

この経験は、その後の私の仕事観にかなり大きな影響を与えています。
能力は肩書きや学歴ではなく、結果で評価されるべき。
そして、結果を出した人間には、それに見合った評価を返すべき。

この考え方は、後に0 [Zero]を経営する際の、人材に対する基本的な考え方にもつながっていきます。

7):専門学校 1990

・IBMでは高卒は採用しないとの事
・まさかの入学拒否
・人に教えることを学ぶ
・スキー三昧

◆IBMでは高卒は採用しないとの事
話は前後するのですが、第二種情報処理技術者試験に合格したタイミングで、IBMに飛び込みで就職を申し込んでいます。
何をしたのかは、もう覚えていません。
ただ、「IBMに入りたい」と思って、直接動いたことだけは覚えています。
そして、そこで初めて知ったのが、「IBMでは高卒は採用しない」ということでした。
そこで、それなら専門学校に行こうと考え、地元の専門学校を受験します。
なお、この時点では、最初に就職した会社でライン長をしています。

◆まさかの入学拒否
試験を受けてから、学校から返ってきた答えは・・・

「合格だけど、入学出来ない」 でした。

ここでも、誰かに指導して欲しかった。
今になって考えれば、私は大学に進むべきだったのでしょう。
でも、当時は誰もその道を示してくれません。
その頃の私は、「資格さえ取れば、社会でやっていける」と勘違いしています。
そして目標は最高峰のIBM。
資格は既に取得済み。
あとは学歴です。
順番が違うことに突っ込んだら負けです。
どちらにしても納得できなかったので、専門学校に直接話をしに行きます。
そこで示されたのが・・・
・「あなたの資格は、うちの先生も持っていない」
・「IQがおかしなことになっているよ」
という話でした。

ここで初めて、自分に対する客観的な評価を知ることになります。
ただ、ここで何かが大きく変わったわけではありません。
私は小学校の頃には、すでに「学校(先生)から教えてもらうことは無い」と感じていました。
先生は教科書を読むだけ。
本を購入すれば、どんどん学べる。
高校ではC言語を独学し、社会人になってからも情報処理技術者試験を独学で取得しています。
だから、専門学校に入って新しいことを教えてもらうという発想はありません。
必要なのは学歴。
専門学校は、そのための手段でした。
それでも大学へ進むという発想にはなりません。
あくまで学歴は軽視で実力主義。
専門学校に一度入って、次の就職からが勝負。
そう考えていました。

なお、専門学校への入学が認められてから、勤め先に退職届を出します。
その際、会社から引き留めの材料を提示されました。

来年から、新しい専門学校が出来ます。
我が社も資金提供しました。
そこに、会社が費用を出しますので通った後に、開発に入らない?

普通に考えたら、これに乗っかりますよね?
でも、私は正義の人です。(この意味がわかる方、よく見て下さいね)
求人票に、「開発」と書いて、それを守らない会社などは許せません。
自腹で専門学校に通う事にしました。
ちなみに、その時に入学を拒否された専門学校には、現在、長男が通っています。
これも、何かの縁なのでしょうか?

◆人に教えることを学ぶ
専門学校は1年のみ通いました。
覚えたことは、人への教え方でした。
当然の事ですが、学校からは何も学んでいません。
ただ、ここで一つだけ、これまでとは違うことを学びます。
人に教えることです。
自分で理解することと、人に理解してもらうことは違う。
これは、それまで独学を続けてきた私にとって、初めて経験する学びでした。
なお、入学と同時に玄関に、「○○クラス・鈴木君 第二種情報処理技術者試験合格」と貼られていました。
許可くらいは取って欲しかったですね。
まあ、許可を求められていたら認めませんが。

◆スキー三昧
高校3年の時、自宅から10分ほどの距離にスキー場が出来ました。
そこから、スクーターでスキー場に通う生活が始まります。
専門学校時代も、基本的にはこのスキー場です。
最初期の人工雪だったので、コンディションによっては、事実上のスケート場。
それでも年間滑走日数は100日を超えていました。

中学生くらいの頃にはダウンヒルに憧れていました。
ただ、自分の体型を考えると、これは勝機がない。
そこで、自分の体型に向いているのはフリースタイルだと判断します。
そして、いつものように書籍で勉強して、独学でモーグルへ。
なぜか、「モーグル=エアー」と勘違いしていたので、とにかく飛びまくっていました。

スキー場にはモーグルコースなどありません。
天然コブでジャンプします。

高さが稼げない。
だったらスピードを上げて滞空時間を稼ぐ。

結果として、アホみたいな速度でバックスラッシュを決めていく、危険な若者になっていました。
ここが、モーグラーとしての最盛期です。
ウェアは最初期のクイックシルバー。
確かフランス製だったと思います。
板は190~207cmをコースによって使い分けていました。
乗っていた車は、クイックシルバーのロゴ(全長2m超え)を入れたランクル40系。
しかもDIY塗装。

当時はスキーバブルの最盛期ですが、その中でもかなり目立っていたと思います。
30年ほど後に同級会があったのですが、私についての話は、なぜかこの頃の話に集中していました。
地元の小学校時代の友人は、私のことを文系だと思っていたはずです。
ところが、このスキーの一件で、かなりキャラが変わっていたのでしょうね。

8):2度目の社会人 1991

・IBMに劣る時価総額
・1ヶ月で辞表提出
・父の発病
・大人の醜さを学ぶ

◆IBMに劣る時価総額
2度目の新卒です。
今回は、強い資格と最低限の学歴で武装済。
本来なら、IBMに挑むことになるのですが・・・
結果としては地元の企業から選ぶ事になります。
原因は、スキー。
やはり都内に就職すると、100日の滑走日数の確保は不可能です。
そこで、C言語を使えて地元という条件で探しました。
その結果、IBMには及ばないものの、当時の時価総額では世界20位以内に入っていた会社のFA部門が見つかりました。
見事、合格。
ところが、最終的にこの会社には入りませんでした。
原因は、合格時に、
「これ以上、他社を受けないでくれ」が条件に入ったことから。
コレさえ無ければ、この会社に入っていました。
今でも不変ですが、私はこの手のことが大嫌いです。

そのかわりに選んだのは、地元の小さなソフト会社。
今では都内で大きな会社となりましたが、当時は10名以下の小さな会社です。
なお、この小さな会社から、入社を断った大きな会社に外注で通う事になります。
結局、仕事をする場所は同じでした。
当時は、まだC言語を使える仕事そのものが限られていました。
今にして思うと、私はロボット系に進みたかったわけではないのですね。
C言語を使う仕事がしたかったようです。

◆1ヶ月で辞表提出
入社から1ヶ月。初任給を受け取った翌日に辞表を出しています。
理由は・・・
入社時に約束した給料から、1,000円程度安かったから。
会社としては、
「私の同期は短大卒や2年制の専門学校卒。私は有資格者でも1年制の専門学校なので、同じ金額にさせてもらった」
ということでした。
私としては、求人票に示されている「専門学校卒+資格手当」という認識です。
もちろん、入社前に説明されていたのであれば、こんなことはしません。
問題は、後から話が変わったことです。
そろそろ、分かってくるかと思いますが、私はこの手のことには徹底的に戦う人間です。
たかが1,000円をスルーしません。
会社側が何を言っても、頷く気はありませんでした。
その時点では、もう一度IBMに向かうか……と思っていました。

その後、何度かの折衝を経て、残留が決まります。
理由は、専門学校時代に貸しがあった校長を動かされたからです。
友人の卒業に関して、私に借りがあったことを持ち出され、交渉に応じました。
結果として残ることになりましたが、ここで一つ、会社というものについて強く感じたことがあります。
人間の能力と、その評価は、必ずしも一致しない。
そして、評価する側の都合で、人の価値が簡単に決められてしまう。
なお、この時の経験は、この10年後に起業する0 [Zero]にも影響しています。
0 [Zero]は、カンパニーカーに代表される独自の考え方で運営されています。
その根っこの部分にあるのが、人材の能力を正しく評価することです。
当然ですが、学歴はまったく評価しません。
資格は評価します。
そして、何よりも重視するのは結果。
結果を出した人間には、会社として最大限の評価を返す。
この考え方になった理由の一つが、この一件です。
色々と思うところはありましたが、残留が決まった段階で頭は切り替えています。
ただ、この頃には頭がかなりスキー寄りになっていました。
そのため、勉強のペースは落ちていた時期ですね。

◆父の発病
ここで人生に大きな変化が訪れます。
入社から3ヶ月後に、父の末期ガンが判明します。
闘病から半年で他界することになるのですが、私の人生はここで大きく動く事になります。
実は、小学校くらいには家業の組子屋を継ぐ物と思ってました。
故に、小さいときから進学先は甲府工業の建築科と思っていたのです。
これが高校進学を検討していた際に父から止められてしまいました。
普通なら普通高校から大学に進むべきところなのですが、なぜが甲府工業という部分だけが残り、結果として電気科に進むことになります。
ここも普通なら電子科となるところなのですが、いつもの通り勉強は独学で良いと考えていたために電気科を選択しています。
仮に、他校や電子科を選んだ場合は、自転車部の顧問との繋がりがない訳なので人生は大きく変わる事になるのですが・・・
運命とやらは不思議ですね。

ここでの大きな変化は、父の死に様を目の当たりにしたから。
末期を悟っても、激痛と闘いながら最後の納品に挑む姿を見ていたからです。
その当時の山梨では、父が唯一と言って良い専業の組子職人でした。
止められていましたが、私が組子職人になることを父が最後に認める事になりました。

◆大人の醜さを学ぶ
2度目の就職先は、組子屋へ転職するために辞めることになります。
この退職の際に、具体的には書けないのですが、私はここで大人の醜さを学ぶことになります。
入社時の「1,000円」の件もそうでしたが、私はこの手のことを簡単に流せません。
相手がどういう立場の人間であろうと、納得できないものは納得できない。
この方の根の部分を、私は今でも認めることができません。
ただ、だからといって、いつまでも「あの時は酷かった」と言い続けるつもりもありません。
私の人生の目標のひとつは、いつかこの方に、
「あの時はお世話になりました」
と言うことです。
もちろん、単なる社交辞令ではありません。
「あの時のあなたの判断が、どれほど間違っていたのか」
それを、私自身のその後の人生で証明する。
私にとっては、それが一番分かりやすい決着なのです。

9):父の他界と家業 1991

・私が21歳であったことの意味
・住み込み修業という時代では無かった

◆私が21歳であったことの意味
父は、私が21歳の時に他界しました。
今になって考えると、この「21歳」というタイミングには、かなり大きな意味があったと思います。
仮に、父が私の中学生の頃に亡くなっていたら、私は外科医を目指していたと思います。
もう少し後のタイミングだったなら、C言語を武器に、そのまま正統派のSEを目指していたでしょう。
ところが、21歳。
高校からPCを独学し、情報処理技術者試験を取り、専門学校にも行き、すでに二度、社会人を経験している。
そして、まだ若い。
だからこそ、ここで人生の方向を大きく変えて、組子職人の世界に飛び込むことができたのだと思います。
もし30歳、40歳だったら、同じ決断ができたかどうかは分かりません。
21歳だったからこそ、躊躇なく組子職人になる道を選べた。
今振り返ると、そう思います。

◆住み込み修業という時代では無かった
葬式が一通り終わったところで、組子の修業先を探すことになります。
ここでも、目指すのは最高峰です。
私は子供の頃から、建具の雑誌を読んでいました。
それが、建具工芸研究所が発刊していた「建具工芸」です。
調べてみると、1929年から2013年まで続いた、かなり歴史のある雑誌でした。
子供の頃から見ていた世界です。
だったら、その世界に入るなら、最高峰を目指したい。
そこで、埼玉にある建具工芸研究所を、アポ無しで訪ねます。
「ここなら、住み込みで小僧を雇ってくれるだろう」
当時の私は、そんなイメージを持っていました。
ところが・・・

1991年。

すでに、住み込みで職人の弟子になる、という時代ではありませんでした。
ここでも、私の持っていた「職人の世界」のイメージと、現実にはズレがありました。
それでも、突然やって来た21歳の若者の熱意は伝わったようです。
それでも熱い思いは伝わったようで、埼玉県内の原口工芸を紹介され、そこに勤める事になります。

10):職人専業時代 1992~1994

・懐中電灯写真
・指が10本残った
・もっともストイックだった時代
・月の売上が7万円

◆懐中電灯写真
職人の修行時代に、写真を独自に勉強していました。
理由は、他の方が作った物も含めて、さまざまな組子細工を可能な限り美しく写真に残すため。
実は、高校3年に自転車部から写真部に移籍していました。
これ、別に写真が好きだったわけでは無く、友人が写真部だったからついでにというヤツでした。
その当時の写真部は暗室作業などもある時代です。
後ほど、この経験が効いて来るのですが、一応は暗室作業の基本もこの時に覚えました。

話は修行時代に戻ります。
いつもの通り、書籍を中心とした学習です。
流石にカメラくらいは無いと勉強にならないと思い、当時の最新型AF機を購入。
どんどん、勉強が進んでくると、AFでカメラを覚えてはダメだと感じて売却。
その当時でも時代遅れになっていた、MFカメラにて勉強を進めて、最終的にはAEすら排除する方向で極めます。
お金はありませんので、あらゆる場所で自分の目を露出計にする訓練。
ネガなら、AEは完全に不要。
スポット測光計が在ればポジでも数秒で露出が決めれるようになりました。
その後に行き着いた先が、懐中電灯写真。
・撮影場所は、夜の河川敷
・基本的には新月(作品によっては月も被写体の一部)
・バルブシャッターで撮影時間は、10分~8時間
・木や草に、フィルター付きの懐中電灯で照らして描写

本当は作品が残っていれば説明がしやすいんですが・・・見つかったら公開しますね。
夜景撮影とは根本から違います。
イメージは、黒いキャンパスに懐中電灯で画を描くということになります。
この世界が難しいのが、全て計算で作画すること。
あらゆるカメラの知識を必要とします。
露光やシャッターの仕組み。
長時間露光時のフィルムの扱い。
デジタルから入ったカメラマンは全く理解出来ない世界ですね。
後にマンション眺望撮影にて10億画素を超える写真撮影を可能にしたのが、この時の経験です。

◆指が10本残った
私の目標は、速やかな独立です。
当然ですが、貯蓄などはありません。
給与は出ると言っても見習いです。
さらに、母をを養う必要もありました。
多少は、父の遺産もあるハズなのですが余裕はありません。
本来ならお礼奉公などもすべきところなのですが、駆け足で修行は終了させました。
2年程度でしたが、付近にアパートを借りて工房に通う日々。
昼間は普通に働いて、定時以降に自分の研究。
自宅に帰ってからは、C言語にて組子設計のプログラムを書いていました。
恐らくですが、原口工芸の師匠(社長)は、私を現在の名工などになって欲しかったのかと思います。
具体的に会話はしていませんが、指導内容がこちらよりになっていました。

なお、現在では機械の進歩により減ったと思いますが、その当時の組子屋は非常にケガの多い職業でした。
指にケガの跡が残っているのは普通で、多くの職人さんは一本くらいは掛けていました。
私は全くケガをしなかったのですが、後輩などは形成外科に通うようなケガをしていました。
私が辞めるときに誰かがこんなことを言っています。
「指が10本あって修行を明けるのは珍しい・・・」と。
建具屋は法人であることが少ない業種なのですが、こう事も理由の一つです。

◆もっともストイックだった時代
この数年間が、私の人生でもっともストイックであった時代です。
本当に貧乏でした。
アパートを借りながら、修業先の埼玉と山梨の往復。
材料や工具を動かしていたことから自動車での移動でしたが、高速道の使用は最低限。
ジュースなども一本も買っていません。
確か、自動販売機のジュースが100円から値上げされたのですが、これに気が付くのに数年を必要としていました。
食事も肉(ささみのみ例外)もお酒も断っています。
乗っていた車は、屋根もドアも無い4WD車。
雨が降っても、雪が降っても、この車なのでその地域では有名人です。
スキーは、組子職人になると決めた瞬間に辞めました。
全く、体を動かさないのもマズイと思い、トライアスロンを始めます。
理由は、ロードバイクは腰痛で乗れないから。
それも、完走目的では無く、勝利目的のタイプです。
友人からは修行僧と呼ばれていた時代です。

◆月の売上が7万円
埼玉の修行から戻り、家業を継いだのが'94年(23歳)です。
実家に戻るタイミングで、修業先でも使っていたNCラジアルソー(800万くらい)を導入。
材料なども数百万相当を準備。
これにより従来ではあり得ない、速度と精度で組子を生産できる体制が用意出来ました。
技術さえ在れば、先行投資などは直ぐに回収できると思っていました。
しかし、その認識は甘すぎました。
同業者の数倍の速度で制作は可能。
材料も最上の物を用意。
そして、価格は相場以下に設定。
ちなみに、腕前は全国トップクラスと戦えるまでになっています。
私の作成していた組子は、間近い無くコスパで全国トップでした。

この組子屋として独立していた時期に、後々の行動原理の基本を決めてしまうイベントが発生します。
それは、父の代からのお客様への納品時。
比較的に都市部にあり代替わりをした息子さんが仕切っていました。
先代も良く覚えていなかったのですが、2代目とは初めてお会いしました。
その際に、このようなことを言われます。

どこで作ってもらっている?
○○と比較すると高い。安くしてくれ!

その当時の私は、子供の頃から知っているベテランの職人さんからは快く迎えられていました。
一部には、恐れられている?と感じるくらい丁寧に対応されていました。
少なくとも手加工で組子が作成できる建具屋さんからは、私の異常な作り込みは理解されていました。
もちろん、値引き交渉などは一切ありません。
問題のお客様と具体的に何を話したかは覚えていません。
しかし、先方の望む金額以下(恐らく材料代くらい)で支払いを受けて、逃げるように帰りました。
もの凄く、悲しい気持ちになったことは覚えています。

この件は、その後の仕事に対するときに姿勢に大きく出てきます。

仕事はキッチリとこなす。値引きは受けない。
そして、理不尽な態度を取られた場合は、こちらから縁を切る。

※値引き交渉をされただけで、次の仕事すら受けませんでした

この話が決定的でしたが、2度目の就職で給料を値切られたりしたのも大きな原因です。

仕事も何とか回っていましたが、1995年1月に阪神淡路大震災が発生します。
理由は不明なのですが、仕事は突然途絶えます。
そして、その後の売上は過去最低の月7万円まで下がりました。
仕事は無かったので、テレビで被害状況をよく見ていたという記憶が残っています。
そして、この時の記憶は、311の際の空撮ボランティアに繋がることになります。

11):住宅営業 1995~2001

・就職のためのマイルール
・連休の無い20代
・年収1000万超え
・キャリアアップ

◆就職のためのマイルール
月の売上が7万円になったところで、副業を探す事にしました。
機械購入の借金があります。手持ちの現金はほとんどありません。
とにかく、お金が必要でした。

ここまで、職場が3回変わっています。
一度目は高卒時の新卒
二度目は専門学校卒業時の新卒
三度目は職人の修行で飛び込み

今回は中途採用を探すことになるのですが、新聞などを取っていなかったことからチラシの求人などはわかりません。
そこで職安に行くことにしたのですが、その門をくぐる前に自分自身に一つの約束をします。

つべこべ言わずに、最初に提示された仕事に就こう

窓口の方に、「稼げる仕ことをお願いします」とお願いしていくつか示された中の最初の仕ことを選びました。
確か、当日か翌日に面接。
そして、面接の翌日に入社です。
入ったのは、地場のハウスメーカー。
その店舗(本社)には、15名程度の営業さんがいたと思います。
後々にわかることですが、とんでもないブラックの会社でした。
ブラックですが・・・稼げる仕事ではありました。

◆連休の無い20代
入って1年くらいは、大変でした。
基本給は高かったことから、ギリギリで生活という事はなくなりました。
大変だったのは、お客様を回してもらえなかったことです。
新規のお客様は、モデルハウスで待ち構えている営業さんのローテーションで振り分けられます。
当然ですが、新人の私には新規の顧客を回してもらえなかったんですね。
そこで、私は部長から、「過去にモデルハウスに訪れて営業が追いかけなくなったリスト」いただきます。
俗に言うボツリストですね。
確か4000組のリストでした。
これを、データベースソフトに打ち込んで営業とデータ解析を行います。
さらに、独自のポストイン資料を作成し、飛び込み営業。
その結果、入社1年後には支店の売上のトップクラスに入る事になります。
また、今に続く営業の基本を独自に身につける事が出来ました。
ただし・・・
拘束時間は非常に長く、23時前に自宅に帰ることはありませんでした。
土日やGWはモデルに待機。
住宅に関する莫大な勉強と、設計士に頼らないプランニング作成。
とにかく、時間はありませんでした。

その当時のエピソードをひとつ。
良く、営業さんの話で「靴が減る」という話があります。
もちろん、私も靴は良く減り、最終的には、それなりの高級靴の底を頻繁に張り替えていました。
この靴の話の延長になるのですが・・・
車の摩耗が凄かったです。(営業車が社員所有車)
訪問している家の数を考えると、1日に平均で100回以上のドアの開閉をしていたようです。
その結果・・・ドアは良く壊れました。
鍵が掛からなくなったり、ドアハンドルが固まったり。
極めつけは、鍵が摩耗しすぎで鋭くなって・・・エンジンが掛けられなくなりました。
なお、国産車からボルボに乗り換える事になるのですが、この時に一つ一つの部品の作り込みが国産車と違うことを肌で感じる事になります。
また、これのノートパソコン版も経験しました。
発表直後のSony VAIOを購入したのですが・・・半年でキーボードが壊れてしまいました。
キートップの印刷などもすぐに薄くなります。
その後も何度がVAIOは購入しているのですが、いつもキーボードが壊れます。
なお、VAIO以外はIBM(その中でも高価なグレード)を良く購入していました。
こちらは壊れません。
その当時のノートパソコンは非常に高級品でした。
VAIOは安かったですが、IBMとかDECは、50~80万であったと記憶しています。

◆年収1,000万超え
2年目には年収1,000万円を超えていました。
この会社は、私の辞める時には新入社員を100名採用するという急成長をするのですが・・・
この会社で売上トップを記録します。
なお、値引率と回収率でもトップでした。
つまり・・・
・値引かない
・ミスしない(顧客とトラブルにならない)
・上記を叶えつつ売上トップ

その当時を振り返って、今でも誇れるのが、ミスをしない=回収率のトップでした。
同業者なら、これがどれほど凄いことなのかをわかってくれるハズなのですが・・・
少し、一般の方向けに解説しますね。
まず、住宅業界はクレーム産業です。
当然ですが、契約時のウソはいけません。(これ、普通の営業は出来ていない方が多い)
正しい商品知識が必要です。(これも出来てない方が多い)
まじめにやっていても、建築中のトラブルが発生することがあります。
そして、計画から引き渡しは2年程度の歳月を必要とします。
その場限りの言い訳などをしていると、化けの皮が剥がれます。
普通はチームで事にあたるのですが・・・急成長故に、ここが極めて弱い会社でした。
結果としてなのですが、私は営業ですが設計に携わる事が多くなりました。
その会社に所属してる末期は、ほとんど表に出ない営業でした。
ほとんど事務所で、設計(プランニング)。
時折モデルルームに入っても、私が追いかけないというエリアの顧客は直ぐに会社に返却。
一つのエリアに1件目のお客様ができると、そのご紹介で次から次に契約が決まる。
会社の同僚(監督や設計)などからは評判は悪かったと思います。
思い切り正論をぶつけて煽っていましたから・・・
現在では、パワハラ認定されるようなことを社内にはぶつけていました。

◆キャリアアップ
職安から入った一つ目のハウスメーカーは好きな会社でした。
休みはありませんでしたが結果を出している限りは自由に動かさせてくれました。
給料も同級生の数倍ですので・・・文句は無し。
問題と感じていたのは社長から、組子屋の兼業を辞めるようにという要望が入っていたことです。
今に思えば、私の負担を軽くしようと、色々と考えくれていた社長です。
これも、その一つだったと思えます。

もっと問題だったのが、途中から入ってきた、The営業という方との確執。
入社直後のスタートダッシュを決めて要職に就いてしまいました。
この方ですが、典型的なウソにより契約を取ってくるタイプ。
後々に、さまざまなトラブルを振りまく事になるのですが、成績の良さで周囲を黙らされてしまいます。
私は、数少ない、声を出してこの方と戦う人間でした。
その結果、社長に目を覚ましてもらいたいという観点から退社を決意。
しかし、契約済みのお客様に迷惑をかけることは出来ません。
会社には、事情を話して退職の約束を取り付けました。
その後、1年程度は基本給のみで会社に在籍。
その時は、営業指導とクレーム対応が私の仕事でした。
この時のクレーム対応なども、その後の独立の際に生きることになります。

二つ目の会社ですが、営業として現場に立たなくなってから探し始めます。
誰からの紹介かは忘れたのですが・・・
結果としてヘッドハンティングのような形で新規に立ち上がるハウスメーカーから声が掛かります。
若いことから役職などは示されませんでしたが、私が営業のトップであり、商品開発も入って良いと打診されました。
モデルハウスは標準仕様は確定していなかったのですが、想定されている内容を県外まで出かけて示されて・・・
これなら受けて良いな(お客様に売ることができる)と感じて転職を決めます。
結果としてですが、この会社は私との約束を守りませんでした。
当初、私に示した内容よりも、仕様的には数段劣る内容で販売仕様は固まりました。
私も、職人の腕まで投入して販促資料などを作っていましたが、ある段階から営業することを拒否。
※お客様に責任が取れませんので
結局は、半年ほどで別の会社へ移ることになります。
なお、この会社はブランド名を変えて、とても大きなハウスメーカーになっています。
実は、Web制作会社を起こしてから、この会社のCM作成に携わる事になるのですが・・・
見事に支払いはされませんでした。(私が居るとは知らなかったバス)
まあ、そういう会社という事です。

三つ目の会社は、過去の実績を引っさげて飛び込みで売り込みをしました。
こちらからの条件は、副業を認める事と、ある程度の給与。
最終的にフルコミッション営業となり、0 [Zero]の設立まで在籍することになります。
この会社では・・・・
・設計(プランニング)
・仕様選定
・CG作成
・組子職人
・営業
この全てを私が担当します。

12):0 [Zero]起業 2001~

・気が付くとWeb屋に
・EGUmedia設立
・東京に進出
・飛び込み営業で特定分野のトップに

◆気が付くとWeb屋に
住宅営業と組子屋は上手に兼業が出来ていました。
時代はもうすぐ21世紀。
Windows98くらいの時だったと思います。
そのタイミングでネットから組子細工の受注をするために、Webサイトを立ち上げます。
まだまだネットの普及率は低い時代でしたが、都内の設計士からの案件など、価格を維持しつつ一定レベルの仕事ができるようになっていました。
そして、計算外が発生します。
自分で作った組子屋のサイトへの問い合わせが組子では無く、Webサイト制作依頼が増えてしまった事です。
そして、またしても転換期が訪れます。
それが、Macromedia Flash(Adobe Flash)との出会いでした。
確か・・・IBMの本国サイトだったと思うのですが、素晴らしいサイトになっていました。
その後、海外系のサイトを中心に調べると、Flashにより制作されていたことがわかりました。
その衝撃はすさまじく、「今なら、国内トップが取れる」とふと思いついて・・・

そこから、半年間Flashの猛勉強を行いました。

そして、知人からの紹介で地元の結婚式場の仕ことを受注します。
一人で、HTML Flash JavaScript 写真撮影 レタッチ DTM 3DCGの全てをこなします。
この式場とは15年程度のお付き合いとなるのですが、この出会いがなければ、ここから先の人生も変わっていました。
なぜなら住宅営業で、収入は十分です。
組子屋も細々と続けているので、満足していたハズです。

◆EGUmedia設立
その式場のサイトですが、結構な評判になっていました。
例えば・・・その式場のサイトを見た人材が、京都から入ったそうです。(式場は山梨)
SEO対策などもされていたことから、あらゆる地域から問い合わせが入っていたようです。
まず、デザインは海外ブランドと同等(すいません。ギリギリ著作権セーフレベル)
大きな違いはFlashの欠点であったローディングが極めて少なかった点。
その後、「前読み」と技術に名前を付けましたが、最初は最低限の読み込みをします。
ユーザーがページ閲覧をして帯域に余裕ができると、先のページを裏で読み始める。
もちろん、別のアドレスは読むことは出来ないので、Flashの共有swfとして先読みをする・・・
一定のプロでも、何を言っているのかわからない状態ですね。
この実績を持って、友人含めた3名で、0 [Zero]の前身となるEGUmediaを起こしました。
資本は、私。
事務所の提供も私です。
確か30歳であったと記憶していますが、楽しい日々でした。

◆東京に進出
都内の最初の仕事は、ネットを介して知り合いになった私の車の師匠から。
紹介された先は、ボルボの直営店が新たに開設する中古車センターでした。
近くの方は覚えているかも知れませんが碑文谷のダイエーの近くのお店です。
Webサイトを制作したのが、2001年頃と記憶していますが、その時点でVRを既に採用していました。
その後も現在の中古車販売サイトに該当するシステムも内製。
他のブランドと比較すると、ボルボ直営店のシステムが充実していたのは・・・0 [Zero]による物でした。

さらに、この実績を元に、以下の業務を次々に受注。
・エステティックサロン(業界2位)
・ディズニーランド・オフィシャルホテル
・シャッターメーカー
・ミュージシャン
・マンションデベロッパー(業界1位)

一部には法人化以降も含んでいますが、これを小さな山梨の会社が制作していました。
また、全てに共通するのが、お客様とのお付き合いが長期に渡ること。
そして、同業種から仕ことを取らないこと。

結果として、その業界を代表するWebサイト安定的に提供していました。
特にFlashの全盛期は、都内のWeb制作会社でも0 [Zero]を知っている方は多くなっていました。
何らかの理由で契約が切れたお客様は、弊社がいなくなってから大変な苦労をすることになります。
例えば、エステティックサロンは弊社で4年間(0 [Zero]としては短め)制作していました。
それを引き継いだ大手広告代理店は、サイトの更新に1年の時間を必要としました。
もちろん十分な時間と費用があって、この時間です。

その後に空撮中心の会社に変化するのですが、担当の方に元々はWeb制作会社であることを伝え、その実績を話すと・・・何人もの方がそのサイトを記憶していました。
今にして思うと、都内に事務所を移転したら・・・もう少し楽に稼げたのではと思えてなりません。

13):0 [Zero]の多角化 2003~

・プログラマは40代で退職
・社員の雇用を守りたい

◆プログラマは40代で退職
時は、'90年頃に遡ります。
その当時、このようなことを言われていました。

プログラマは頭が固くなる40代で退職になる。
それまではしっかりと稼ぐことだ・・・

古すぎる記憶であることから、書籍で見たのか誰かに聞いたのかすらわかりません。
当時は20代前半でしたが、自分が該当する年齢になったら気をつけようと思っていました。
覚えるべきプログラミング言語の方向が変化する時代でもあり、今よりはプログラマに求められる能力が高かった時代です。

◆社員の雇用を守りたい
時代が進んで、'03年頃。
EGUmediaから、有限会社0と社名を変更して法人登記。
小さいですが、自宅の一室を事務所とし、社員も雇い始めました。
この時にソフトウェア会社に勤めていた頃の経験が生きてきます。
まず、能力を適切に評価して十分な待遇を用意する。
そして、40代で引退という可能性が出てきてもWeb関連以外の仕ことを社内に生み出して雇用を守る。
この観点から、さまざまな副業(会社としての)研究を行います。

研究したのは、以下のような感じです。
・炒り豆屋(会社は旧3桁国道沿い)
・観賞エビ養殖(当時はバブル)
・写真撮影
・空撮業

特に空撮業には将来性を感じ積極的に投資しました。
研究開始から1年程度で、世界初となるVR空撮を実現することになります。
本業はWeb制作でしたが、現在につながる流れが生まれています。

14):ラジコン空撮・VR・Full Flash

・向かうところ敵無しのWeb屋
・スマホの普及を読み間違える
・VR撮影ができるラジコン空撮が全く売れない

◆向かうところ敵無しのWeb屋
2006年頃には、VR撮影・ラジコン空撮を自社で制作できるWeb屋になっていました。
本業でも、Flashの独自技術により無双状態。
多数のコンペでも負け無しを継続しています。
Web制作会社としては、この頃がピークになります。

◆VR撮影ができるラジコン空撮が全く売れない
現在の技術から振り返っても、2005年前後でVR空撮が可能という事実は先走り感が強すぎます。
一部のプロからは最大限の評価をいただいていましたが、肝心の売上が立ちません。
この最大の理由はラジコンであるが故に飛行する場所を選ぶという点でした。
具体的には都市部の飛行などは自主的に規制していたことから売り先はリゾートホテルなどに限られていました。

◆スマホの普及を読み間違える
ここも読み違えています。
私が重大な読み違えをし、結果としてWeb事業は収束に向かいます。
それは、iPhoneの登場により、Flashが衰退するなどというシナリオが想定できなかったから。
このような失敗をすると、その後に自分の中で反省会を行います。
それは、次回のミスを少なくするために必要だから。
この件も脳内会議を行ってみたのですが・・・
何度繰り返しても同じミスを犯すことがわかりました。
iPhoneを普及させるために、Flashを止めることを思いついた方は私以上の能力があります。
あそこで動かなければ、今ほどのスマホ過多の世界にはならなかったかも知れません。

15):バルーン空撮

・ラジコン空撮の次に見つけた答え
・車載式バルーンの完全自社開発
・高度な画像加工が出来るという独自ポジション

◆ラジコン空撮の次に見つけた答え
ラジコン空撮の欠点を補う観点から、バルーン空撮の研究を始めます。
当時のラジコン空撮は、
・民生機では自立飛行が困難
・死亡事故の想定が必要
・需要の多くは動画ではなく静止画
このような感じでした。

これらの欠点を補える可能性があるのがバルーンでした。
当時はデジカメの画質が向上しており、「静止画をそこそこの品質で撮影する」というニッチな市場では、既にコンデジによるバルーン空撮が成立していました。
そこで、将来的にデジタル一眼レフを搭載することを前提に研究を開始します。

◆車載式バルーンの完全自社開発
最初は市販されているバルーンを購入し、リグを自作するところから始めました。
しかし、実際に現場で使ってみると、風に流される、機材重量に制限があるなど、それぞれに問題があります。
そこで最終的には、バルーン本体を除くハードウェアの全てを自社開発という前例の無い領域に踏み込みます。
この時に素材・設計・運用など、さまざまな作り込みを経験します。
この経験が、その後のドローン空撮機材開発で有形・無形の資産になります。

◆高度な画像加工が出来るという独自ポジション
バルーン空撮で初めて、「技術は高度だけど儲からない」から脱することができました。
その理由が、CGやWeb開発で蓄積していた画像加工技術です。
撮影だけで終わらず、撮影した画像を高度な画像加工まで行う。
つまり、
撮影機材を作る → 撮影する → 画像を加工する
ここまで、全てを自社で完結できました。
これが、単純な空撮業者とは異なる0 [Zero]独自のポジションになりました。

16):311とドローン空撮 2007~2017

・311がきっかけでドローン参入
・空撮屋としてのひとつの到達点

◆311がきっかけでドローン参入
ドローン空撮

◆空撮屋としてのひとつの到達点
2012~2016年頃が空撮業としてのピークになります。
元々がWeb制作会社であったことから、SEO対策は完璧。
ネットを用いて空撮(ドローン)関係のことを探すと、ことごとく0 [Zero]のサイトに行き着いていた時代です。
その頃の影響が残っていると感じるのは空撮業の料金体系です。
その当時の他社の料金表では、クライアント側で最終料金の概要を知ることは困難でした。
基本的に、交通費などは都度精算。ここを離島などを除外して都道府県単位に統一しました。
そして、さまざまな理由によるキャンセルに対して備えたのも、恐らく0 [Zero]が最初です。
当時は、空撮の無双状態。
新規のお客様は、仕事を押さえる事が出来ないという状態が長期間にわたっていました。
現在では普通に見かける、基本料とかキャンセルの概念。
この基本を、0 [Zero]が作ったと言っても当時を知る同業者からのクレームは入らない事でしょう。

17):エアロネクスト起業 2017~2021

・守秘義務
・一般的な事として

◆守秘義務
エアロネクスト創業時代は基本的に色々と書くことが出来ません。
お察し下さい。

◆一般的な事として
公開されている事柄に関しては、表面の範囲では書くことが可能です。
・私が創業者でありCTO
・数々の賞を総なめ
・2021年に役員を退く

この辺りまでが、ここで書ける限界です。 この時代については、いずれ守秘義務が無くなった時にでも。

18):住宅デバイス共創機構設立 2024/7~

住宅デバイス共創機構設立準備室

19):次世代航空機構想

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